ピロのブログVer3

Ver2の続きです

車両撮影記 近鉄その他

近鉄 高安検修場の構内入替車

■ 記事概要

鉄道車両を診る車両基地や工場の中には、そこを入出場する車両の入替等を専属で行う構内入替車が存在しています。近鉄でも、昔から必要な各所に構内入替車が配置されてきました。

入替車の経歴は、新旧を問わず様々であり、かつて旅客車だった車両を除籍して機械扱いで使用する事例も珍しくありません。今回の記事では、その流れで入替車となった後、現在まで約30年活躍を続ける近鉄高安検修場の構内入替車を紹介します。

※ 今回の記事は、「ピロのブログVer2」にて、以下のタイトルで掲載した記事を一部リメイクし、新たな画像や以後の情報を追加した内容です。

近鉄 高安検修場入替車…2016.03.06掲載

構内入換車&近鉄特急車16000系16008F&22000系22117F&(1)6200系@高安…2016.06.08掲載

近鉄観光特急「青の交響曲」風の紺一色外装となった構内入換車@高安…2016.06.15掲載

近鉄観光特急「青の交響曲」風外装となった構内入替車@高安…2016.10.20掲載

※ 以下、特記以外は高安検修場周辺 (敷地外) or 「きんてつ鉄道まつりin高安」にて撮影


■ 記事本文

こんばんは

今回取り上げるのは近鉄電車。紹介するのは、高安検修場の構内入替車 (車籍無/機械扱) です。


「きんてつ鉄道まつり」で毎年公開されている五位堂検修車庫・高安検修場・塩浜検修車庫の3か所は、近鉄が持つ車両工場の中でも特に規模が大きな所であり、工場へ入出場する車両の入替を専属で担当する構内入替車が常駐しています。「きんてつ鉄道まつり」で展示される事もありますが、裏方の存在という事もあってか、基本的にあまり目立つ事がないように思います。

〈五位堂検修車庫/2019-10-19〉
〈2019-11-23〉
〈塩浜検修車庫/2018-11-10〉

近鉄に限らず、規模の大きな車両工場がある所だと専用の入替機械を持っている所が多く、その機械に関しては、元々旅客車・貨物機関車だった車両をそのまま工場入出場車の入換用機械として転用するケースも見られます。似たような見た目の車両が現役なら、傍から入替用機械を見た時、営業で使っていそうな車両のように見える事もあるかもしれません。関西の大手5私鉄だと、このような流れで入替車となった機械が今でも見られるのは、近鉄と京阪のみです。阪急・阪急・南海では、現役車両が直接他車を入換したり、ディーゼル機関車やアントなどの小型入換用機械が活躍しています。


五位堂・高安の入替車は、かつて旅客車として活躍していた車両です。両方とも今や車籍もなく機械扱となっている存在ですが、当の昔に系列・形式消滅した車両群の形式一派が未だ姿を残して稼働中という点で、個人的には貴重な存在だと思えます。

そこで、今回の記事では、高安検修場で活躍する方の構内入換車について、その経歴や現在の姿を少しばかり紹介します。

第15記事目 目次

1:高安の構内入替車となるまで

〈参考1〉モ1650形各車の引退前後

〈参考2〉1982.03.18ダイヤ変更と近鉄京都線の一般列車5両運転

2:全体外装の変化過程

3:構内入替車化後の姿

3-1:正規運転台側正面

3-2:車体側面

3-3:簡易運転台側正面

3-4:車内

3-5:屋根上・下回り

4:おわりに

5:リンク集

では、記事内容に移ります。

※ 以下、特記以外は高安検修場周辺 (敷地外) or 「きんてつ鉄道まつりin高安」にて撮影

1: 高安の構内入替車となるまで

2020年04月23日現在、高安検修場で構内入換車として稼働しているのは、元1600系モ1650形C#1654 [Mc] です。モ1650形は、1600系列の増結用単独Mc車として1963年度後半に登場した形式で、1965年度末までに9両が竣工。登場当初の活躍線区である名古屋線系統では、基本編成の増結車として活躍しました。

〈2017-01-19〉

C#1654 [Mc] は、1600系列の3次車として1964年 (1964.01.24付で竣工/近畿車輛) に登場した車両です。

登場当時は、塩浜検車区に配置されたようで、1967年に富吉検車区が開設されるとそちらへ移った模様。1600系列に含まれる他の形式車と同様、しばらくは名古屋線系統の路線を活躍の場としています。

一方、沿線人口増加に伴って各路線の編成長大化が頻繁に行われるようになった1970年代・1980年代になると、各系統線区の短編成車や単独制御車は、何かしらの改造や編成固定化が行われるようになりました。モ1650形も末番56-59の4両が90年代になるまでに2両固定編成の制御電動車となりましたが、末番51-54の4両については、1981年度末に活躍の拠点を名古屋線系統から奈良線系統へ移しています。

〈五位堂検修車庫/2019-10-20〉

奈良線系統車と名古屋線系統車が関連する車両配置の動きとしては、近年だと「シリーズ21」導入に伴う9000系全編成の転属や 8600系8617Fの C#8167[T] 廃車に伴う C#8177[T] の編入などが挙げられますが、モ1650形は、京都線の編成長大化絡みで配置が変更となりました。

C#1654[Mc] 含むモ1650形4両は、1982.03付で富吉検車区から西大寺検車区へと転属しています。

4両の転属の契機となった 1982.03.18ダイヤ変更では、京都線の急行列車5両運転 (新田辺増解結) に対応できる内容で設定が行われており、この時は、乗り場であれ車庫であれ、場所を問わず柔軟に増解結運転が出来る単独の制御電動車が必要とされた模様。当時の在籍車両の中からこれに合う車両を検討した時、モ1650形は、併結を想定した車両との車歴差や性能差を考慮しても、この役割に適任だったようです。転属後は、[←新田辺 (4両+1両) 京都→] で組成された急行列車などの増結側車両として使用されています。

〈五位堂検修車庫/2019-10-20〉

なお、名古屋線系統から奈良線系統へ持ってきたモ1650形をすぐに使うという事はなかった模様。方向転換を伴う転属回送後は、連結器高さの調整や妻面側への入替用簡易運転台新設工事等が行われており、1982.05付で各車に対する改造が竣工しています。改造施行場所については、ネット上に上がっているモ1650形の写真で京都線運行開始(直?)後の検査札が [57・5/玉川工] となっている辺りから察するに、玉川工場の可能性が考えられます。回送関連の詳しい事は分かりません

補足しておくと、モ1650形の転属時点では、五位堂検修車庫はまだ開設直前でした。この当時、奈良線系統車の改造や検査・お色直し等の施行は、かつて [若江岩田-八戸ノ里] 間に存在した玉川工場が受け持っています。五位堂開設後は、業務を引き渡して稼働を終了しており、最終出場車の8600系8601Fは、出場前に大きな記念HMを正面に掲出した模様。工場は、1986年に完全廃止となりました。

※ 名古屋線時代の向きを考慮するなら、恐らく、中川短絡線経由の回送でそのまま方向転換し、そこから高安を経由地に玉川工場へ入場した事が考えられます。


ちなみに、かつて工場があった所は、現在、ニトリモール東大阪 (これ以前は近鉄ハーツ) がある場所です。この付近に関して、つい先日、大阪モノレール延伸工事施行認可が国交省から下りたようですね。

〈瓢箪山-枚岡/2018-02-16〉

玉川工場の跡地については、当初から大阪モノレール延伸を見越した活用が想定されていたそうなのですが、なかなか延伸計画が具体化しなかった事で商業施設として活用する事になった模様。計画に進展があったのは、ニトリモール開業後の2016年であり、現状、近鉄側にも大阪モノレールとの接続駅となる瓜生堂(仮名)新駅が設けられる予定となってます。

昨今のコロナ情勢で計画通り事が進むのかどうかはまだ分からない様子ですが、今後、玉川工場跡地周辺は様々に変化が起こる事になりそう。モノレールの延伸過程も含めて、新駅が出来るまでの様子をちょくちょく見学していくのも面白そうです。

さて、話を戻します。


〈2012-11-11〉

京都線の急行列車5両編成化は、1982.06.01より実施されたらしく、奈良線系統での営業に際して必要な改造を終えたモ1650形4両も、この日から想定された使い方をされたようです。

軽く調べてみれば、急行で京都に到着後、そこで解放して留置、そして別列車に併結して新田辺へ戻る運用もあったとか。当時の様子を全く知らない世代なので、実際の詳細な様子は分かりませんが、しばらくは新田辺車庫を拠点とした京都線内増解結運用で活躍したのかなと思います。

〈2016-01-28〉

1982.06.01以降、5両が最大両数の状態で続いていた京都線一般列車ですが、1987.12.06ダイヤ変更で最大6両化が達成され、以降、奇数両数の列車は次第に少なくなった模様。併せて、[京都-新田辺] 間の急行・準急の増解結運用が主だったモ1650形の使い方も変化したらしく、3両や2両の編成に増結し、京都線の他、橿原・天理線の普通列車に充当される事が増えたようです。

また、この頃の近鉄一般車は、3200系の登場を皮切りに、マルーン一色の旧塗装からアイボリー&マルーンのツートンカラーで構成された新塗装へ外装塗り替えが進んでいましたが、各系統線区のモ1650形も新塗装化が行われています。ただ、京都線へ転じた4両と名古屋線の1両 (全て1963年度竣工車) については、冷房化工事が施行されず、京都線の方は奇数両の列車需要がなくなった事もあって、いずれも1989年度には運用離脱となりました。この時に引退した C#1651[Mc] - C#1655[Mc] の5両については、前頭部を残して解体された C#1655[Mc] 以外、引き続き別用途で活躍しています。

〈 YouTube より [埋め込み・引用] 〉

他4両の内、C#1651[Mc] および C#1652[Mc] については、系列・形式の変更と改番を行った上で、有事の際の救援用有蓋電動貨車モワ50形 C#51[McF] および C#52 [McF] へ転用。C#1653[Mc] および C#1654[Mc] については、除籍した上で、前者が五位堂検修車庫の構内入替用機械・後者が高安検修場の構内入替用機械へと転用されました。C#1653[Mc] を除く3両については、各々の役割へ就く前に再び方向転換が行われています。

※ この時の様子の一部を映した貴重な動画が YouTube にアップロードされていたので、[埋め込み・引用] する形で↑にて紹介させていただきます。動画前半に登場する列車編成は、[←大阪上本町 (1654[Mc]+1652[Mc]+1651[Mc]+8069[Mc]-8574[Tc]) 伊勢中川→] らしく、後半は編成の向きが逆になっています。この後、1654[Mc] と1652[Mc] を切り離した上で、別にもう一度方転回送が行われたようです。この方転回送については、『関西の鉄道』誌 1990年盛夏号 NO.23 の「近鉄だより (②奈良・生駒線/P84)」にも記載があり、気になる方はそちらも参考にどうぞ。

高安検修場の構内入替車となった後の C#1654[Mc] については、次項目より外装変化の過程と現在の姿を軸に軽く紹介します。


〈参考1〉モ1650形各車の引退前後

(1963年度竣工車)

・C#1651[Mc]

運用離脱後、2度の方向転換を経て、1990.03付で救援用有蓋電動貨車モワ50形C#51[McF] へ転用 (向きの変化は無し/但し1位・2位の設定は名古屋・京都線時代から逆転[=電動貨車化時に正規運転台側を1位設定へ変更]) → 2000.11付で除籍、その後は廃車・解体で現存せず

・C#1652[Mc]

運用離脱後、方向転換をし、1990.03付で救援用有蓋電動貨車モワ50形C#52[McF]へ転用 (登場時本来の向きに戻る[正規運転台側は2位設定のまま]) → 2000.11付で除籍、その後は廃車・解体で現存せず

〈 Twitter より埋め込み・引用〉
〈 Twitter より埋め込み・引用〉
〈 Twitter より埋め込み・引用〉
〈 Twitter より埋め込み・引用〉
https://twitter.com/Mie_Walker/status/1438527861573361671
〈 Twitter より埋め込み・引用〉
https://twitter.com/Mie_Walker/status/1438512923962318862
〈 Twitter より埋め込み・引用〉

・C#1653[Mc]

運用離脱後、1990.03付で除籍&五位堂検修車庫の構内入替用機械へ転用 (方向転換は無し[正規運転台側が2位設定]) → 2020.04時点も稼働中

〈 Twitter より埋め込み・引用〉
〈五位堂検修車庫/2019-10-20〉

・C#1654[Mc]

運用離脱後、方向転換をし、1990.03付で除籍&高安検修場の構内入替用機械へ転用 (登場時本来の向きに戻る[正規運転台側が2位設定]) → 2020.04時点も稼働中

〈2016-10-30〉

・C#1655[Mc]

運用離脱後、1989.04付で除籍され廃車・解体 → 前頭部のみ運転シミュレーターとして現存

〈 Twitter より埋め込み・引用〉
〈 Twitter より埋め込み・引用〉

※ C#1655廃車後に関する情報とその姿を写した貴重な記録が話題として Twitter に出ていたので、[埋め込み・引用] する形で↑にて紹介させていただきます。この他、『関西の鉄道』誌 1989年盛夏号 NO.21 の「近鉄だより (5. 車両の新造・移動・廃車について/P72-73)」にも C#1655廃車後の処遇について記載があり、気になる方はそちらも参考にどうぞ。

(1965年度竣工車)

・C#1656[Mc]

運用離脱後、方向転換と必要な改造を行い、系列・形式の変更と改番を行った上で養老線へ転出 (1992.07付) → 600系列モ600形C#601[Mc] となり、2020.04現在、養老鉄道600系601Fの制御電動車として活躍中

〈美濃津屋-駒野/2017-02-25〉

・C#1657[Mc]

運用離脱後、方向転換と必要な改造を行い、系列・形式の変更と改番を行った上で養老線へ転出 (1993.03付) → 600系列モ600形C#602[Mc] となり、2020.04現在、養老鉄道600系602Fの制御電動車として活躍中

〈五位堂検修車庫/2011-11-13〉

・C#1658[Mc]

運用離脱後、方向転換と必要な改造を行い、系列・形式の変更と改番を行った上で養老線へ転出 (1993.11付) → 600系列モ603形C#603[Mc] となり、20年少しの活躍を経て2016.04付で除籍、その後は廃車・解体で現存せず

・C#1659[Mc]

運用離脱後、方向転換と必要な改造を行い、系列・形式の変更と改番を行った上で養老線へ転出 (1994.07付) → 600系列モ603形C#604[Mc] となり、2020.04現在、養老鉄道600系604Fの制御電動車として活躍中

〈参考1〉終」


〈参考2〉1982.03.18ダイヤ変更と近鉄京都線の一般列車5両運転

1982.03.18ダイヤ変更実施直後の時点では、京都線急行列車の最大両数は6両編成だった模様 。一般列車の6両運転は、この時の変更で平日朝に初めて設定されている (特急列車の6両運転は、1979.07より開始)。運転区間は [新田辺-京都] であり、5両運転時と変わりない。ただ、この時点の急行停車駅の中で大久保のみホーム有効長が5両であったため、停車時にはドアカットを実施しており、その度に大久保駅真横の踏切 (久津川方) を封鎖していた。1982.06.01以降、一般列車の6両運転は一旦中止となり、最大両数は5両編成となっている。

輸送力増強が叫ばれる中で常時6両運転実現の大きなネックとなっていた大久保駅のホーム有効長問題は、この5年後に解消されているが、逆にモ1650形を京都線に呼び込んだ大きな要因がこれだったと思われる。文献の記載では、1982.03付の転属となっているが、[当面は5両運転を行う前提で先行試験的に6両運転を行い、設定していた5連運転開始時期が来た時に改造を終えたモ1650形を予定通り投入した] のか、それとも [ドアカットと踏切封鎖が問題になってから急遽呼び込み、後で前倒し転属扱いにした] のかは不明。

ちなみに、京都線急行列車の6両運転が再開したのは 1987.12.06 ダイヤ変更後で、大久保駅も 1987.10.22 に高架化 (工事期間は1984-1987で、旧線・仮線・新線を活用した3段階で高架化) およびホーム有効長を6両対応にしてリニューアルしている (有効長の6両化自体は、高架化前の仮線上仮設ホーム時代から開始した模様)。当時、[新田辺-西大寺] 間で唯一の急行停車駅に該当した高の原がこのダイヤ変更に対応する形で有効長を6両にしたのかは不明。この変更に合わせて、3200系の6両固定編成化も実施され、奇数両の列車や単車増結の需要もこれまで以上に減った模様。

〈参考2〉終」


2:全体外装の変化過程

高安検修場の入替用機械となった後の C#1654[Mc] の可動範囲は、高安北車庫のみが基本となりました。また、車籍を失った機械という事で、全体外装も以前までの一般車仕様に合わせる必要がなくなり、その見た目は、時代の下りと共に少しずつ変化しています。

〈五位堂検修車庫/2019-10-19〉

入替用機械となった直後は、引退した時とほとんど同じ外観だったようで、全体はアイボリーとマルーンのツートンカラー、正規運転台側正面は幌や渡り板付きです。マルーン一色の簡易運転台側正面についても渡り板や右上の車号表示などが残っており、こちらは現在の五位堂検修車庫入替車の妻面が全体イメージとして近いです。

※ レイルロード社発行『サイドビュー近鉄3』P126/127 でその姿を確認する事が可能です。

〈2012-03-13〉
〈2015-05-29〉

その後、1990年代中盤になると、入替用機械に共通して採用されていた外装に変更されています。見た目という点では、一回目の大きな変化です。こちらは、マルーン一色の全体カラーと前後運転台側正面に黄色の警戒帯を入れた仕様。赤白ツートンに比べると塗装作業は簡易に済んでいそうですが、どの時期に塗り替えられたのかは正確に分かりません。ただ、高安入替車は、20年近く一貫してこの見た目で稼働しています。

〈2016-02-29〉

車体の塗り替えがどの位の周期で行われていたのかも不明ですが、たまに出て来る塗装剥がれが知らぬ間に無くなっている事はあるので、外装が全く手入れされないまま20年というのは流石になさそう。

ただ、稼働場所が限られている分、現役車両と比べると塗り替えスパンは長そうな気がします。

〈2016-05-28〉
〈2016-05-28〉

見た目の点で二回目に大きな変化があったのは2016年です。

この時は、塗り替え前の姿を見る機会に恵まれまれたのですが、見た感じ、黄色の警戒帯も消すような雰囲気で、塗り替え後にどういう外観になるのか気になっていました。

〈2016-06-15〉
〈2016-06-23〉

2016年6月上旬まで所々で色を落とした状態だった高安入替車は、中旬になるとお色直しを終えて屋外へ。これまでの姿とは全く違い、艶ある紺色一色の外装となっていました。加えて、正規運転台側の排障器には金色の飾りが付けられており、同年9月にデビュー予定だった「青の交響曲」車両に対して塗装する前の試験塗りに起用された事が推測できます。

〈2016-06-30〉
〈2015-11-21〉

ちなみに、新車両デビュー前の試験塗りに関しては、この他でも話題となった事例が幾つかあり、近年だと21020系デビュー前の22000系に対する試験塗装、汎用特急車新塗装化前の22000系・12400系に対する試験塗装、80000系デビュー前の21000系に対する試験塗装などが五位堂・高安で注目されていました。

今までの事例から察するに、初めて車両に採用する色合いやそれを車両が纏った際の印象のチェックは、事前に現車塗装で確認する流れを含ませるのが定石なのかもしれません。これは近鉄に限った話でもないようで、この時の高安入替車で見られた紺色一色外装だと、南海50000系デビュー前の21000系に対する試験塗りを思い出す方も一程度おられたのではないでしょうか。

〈2016-10-18〉
〈2016-10-30〉
〈2016-10-30〉

2016年6月中旬より紺色一色の見た目となった高安入替車ですが、9月下旬になるとさらに車体へラッピングが加えられました。デザインに関しては、エンブレムや記載文字の表現に若干の違いはあるものの、同月より営業を開始した「青の交響曲」とほとんど同じです。同年10月の「きんてつ鉄道まつり2016 in高安」では、「青の交響曲」のPRも兼ねてなのか、メイン展示の一つとして目立つ位置で留め置かれていました。

以降、現在に至るまで、高安入替車は「青の交響曲」風の外装で構内の入替作業に従事しています。次項目では、現在の姿を中心に、入替車となった後の C#1654[Mc] の姿を紹介します。 

3:構内入替車化後の姿

〈2016-10-30〉

高安検修場の入替機械となってから30年が経過し、現役車両として活躍していた年数よりも入替車として稼働する年数の方が多くなった元 C#1654[Mc] ですが、塗装等を除けば、現役を引退してから余り手が加えられていないように思います。

所感では、五位堂検修車庫の構内入替機械となった元 C#1653[Mc] と比べて、現役時代そのままとも言える見た目を各所に残しているという印象です。

以下、個人的に着目できた箇所の見た目を少し紹介します。

3-1:正規運転台側正面

〈2015-11-01〉
〈2016-10-30〉

正規運転台側正面を見てみると、塗りつぶされてはいますが、右窓上に C#1654[Mc] だった証である車号が残存しています。五位堂検修車庫で稼働する C#1653[Mc] の方については、入替機械化後、早々に取っ払われたようです。

また、「青の交響曲」風となる前の窓には、デフロスターが取り付けてあったと思しき跡も残っていました。デフロスターに関しては、[マルーン一色+警戒帯入り] の姿となった後もしばらく付いていた模様。渡り板については、早々に撤去されたようです。

その他、下部の標識灯や貫通扉周りの入替補助灯具を付ける金具、左右の運行標識板・種別標識板掛などは、現役時代そのままと思しき姿で残されています。ただ、運行標識板掛の方は、現在も上側の押さえが無い状態なので、このまま板を付ける事は出来なさそうです。

〈2017-10-28〉

下回りについては、入替車として必ずしも使う必要がない電連がまず撤去されたようで、こちらは方転回送の時点で既にありません。

排障器は、奈良線系統への転属時に取り付けた物をそのまま使用しているらしく、現在も養老鉄道で活躍している同形車両の物とは形状が異なります。

〈2015-11-01〉

連結器上の車体切り欠きについては、いつ頃に入れられたものか不明です。ただ、モワ50形2両や五位堂入替車の各側正面にも同様の切り欠きがある辺りから察するに、奈良線系統への転属時に入れられたものと思われます。名古屋線系統で残存した車両には、この切り欠きがありません。

また、2016年に「青の交響曲」風になった後の高安入替車は、前項で少し触れた通り、16201Fへ「青の交響曲」としての外観整備を行う前に排障器周りが改装されています。

〈2016-10-30〉
〈橿原神宮前/2020-04-04〉

正面下側は↑のような見た目。比較として、「青の交響曲」として活躍する16200系16201Fの C#16201[Mc] の下側画像も掲載しますが、排障器周りの全体デザインについては大差ありません。

一方、車体下部のラッピングについては、高安入替車が「青の交響曲」のデザインを真似た見た目になっており、[Blue Symphony] の表現以外はオリジナルの記載です。つまり、「青の交響曲」だと、活躍場所の記載が [Osaka-Abenobashi Yoshino]・車両としての役割説明の記載が [SIGHTSEEING LIMITED EXPRESS] となっていますが、高安入替車の方は、活躍場所の記載が [Takayasu Kitashako Only]・車両としての役割説明の記載が [Shunting Electric car] です。何というか、装飾担当者のこだわりが垣間見えます(笑)

〈高安/2018-10-28〉
〈橿原神宮前/2020-04-04〉

車体へのデザインや配色は、正面下側の他でも「青の交響曲」と共通しており、高さは知りませんが、前頭部周辺や各窓周りの金帯配置も大体同じです。パッと見で目立つ差があるとすれば、屋根上色や前照灯周り・細かな表記類に対する金色付けぐらいのような気がします。

3-2:車体側面

〈2016-01-15〉
〈2015-06-29〉

車体側面については、ドア上の雨樋が一切なく、比較的すっきりした見た目となっています。冷房改造や車体更新が行われずに引退した車両という事で、行先・種別案内表示機や妻面の縦樋もありません。それらとは対照的に、屋根上に載るかまぼこ型ベンチレーターは、でこぼこした見た目で目立っています。他にも、正規運転台側正面と同様、両側面には C#1654[Mc] だった証である車号が残されています。「青の交響曲」風になった後も、これらの仕様は変わりません。

〈2015-11-01〉
〈2015-06-29〉

側面の配色については、「青の交響曲」風になる前だと、マルーン一色の全体カラーに警戒帯が若干回り込んでいます。正規運転台側だと乗務員扉前まで、入替用簡易運転台側だと最初の客扱扉がある前まで帯があります。

見た感じ、入替機械の帯は、両面側とも端から進んで最初の扉に当たる前まで配する仕様となっており、マルーン単色となる前の五位堂入替車も同様でした。ただ、入替機械の帯配置やその有無は、時代によって異なっているため、必ずしも全ての入替車が上記の仕様ではありません。

〈2017-03-08〉
〈2017-07-27〉

「青の交響曲」風の外観になって金帯が入った後も、帯の配置は簡易運転台側と正規運転台側とで共通しています。窓にかかる金帯については、乗務員扉がない簡易運転台側の方が端ギリギリまで配されており、帯の細さもあって、遠目から見ると ( [ ) 形状で回り込まれている事が分かりにくいです。

傍から見れば、運転機能のない妻面側前頭部ですが、高安入替車の妻面側は、簡易といえど運転台付きという事で正規運転台側と同様に回り込みを行ったのかもしれません。16200系先頭車の方だと妻面側に運転機能はないので、回り込みが無く次の連結車両にそのまま線が伸びていく仕様となっています。

3-3:簡易運転台側正面

〈左:2015-12-16、右:2016-10-18〉

簡易運転台側正面については、「青の交響曲」風になる前後で↑のように見た目が変化しました。共に、正規運転台側と共通のデザインとなっており、「青の交響曲」風になった後は、中央の扉部分にもラッピングできっちり [Blue Symphony] のエンブレム表示を行っています。「青の交響曲」風になる前の警戒帯に関しては、時代によって屋根上からの配管や形式銘板にも黄色付けしていた時期があったようです。

〈2015-07-02〉

中央の貫通扉は、簡易運転台が付けられる前からの引き戸で維持されています。また、貫通路右下には、入替車化後に後付けされたステップがあり、同左下には、奈良線系統転属時に付けられたと思しき電気笛があります。

〈2016-10-11〉
〈2017-10-28〉

貫通路に残されている渡り板に関しては、これが、かつて奈良線系統車の奈良寄り先頭車正面で独特だった2枚折れ桟板の内の奥側板なのか、それとも後年に取り換えられた別の板なのか不明です。

車両検査札を入れる枠や製造・形式銘板は、2020年時点でもそのまま残されています。

〈2012-11-11〉

灯具類に関しては、奈良線系統へ転属する際に追設した中央一灯の前照灯や角形2段の箱に収められた標識灯・尾灯がそのまま残されていますが、現在も実際に使われているのかは不明です。右側の2段箱に関しては、入替車化後に持ち手のようなものが追設されています。

一方、登場時からと思われる右側のHゴム支持窓や左側のワイパー付き窓、貫通扉左右にある入替補助灯具を付ける金具は、引退時からの状態をキープしているように見えます。

また、かつて右側の2段箱下に昇降用の梯子が設けられていたようですが、現在はありません。こちらは、五位堂・高安共に入替車化後に設けられており、五位堂入替車の方は現在も設置されています。高安の方では不要になったという事なのでしょうかね。

3-4:車内

〈2015-07-02〉
〈2015-07-02〉
〈2015-11-11〉

その他、車体に関して、見た目という点で注目出来た要素に車内からの各種貼付物があります。”ゆびにごちゅうい” 以外のステッカーは、「青の交響曲」風のラッピングが施行されると同時に全て剥がされてしまったようですが、引退直前期における広告やイベントのPRは長らく残存していました。丸い形の優先座席ステッカーも次デザインのものに取って代わられてから早くも7年が経ち、すっかり過去のマークとなってしまいましたね。

〈2017-10-28〉

車内に関しては、壁面の内装材が木目調のデコラである他、吊り革や扇風機が残されています。

〈2013-03-22〉
〈2015-11-11〉
〈2017-10-28〉

客扱いドアについては、「青の交響曲」風のラッピングを施す時にグレー色だった戸先ゴム部分も全ての箇所で塗った (塞いだ?) らしく、色塗りされた箇所は、現在とても堅固な見た目になりました。

塗り替え前は、普段から若干開いたような状態で、常に車内へ風が入っていそうな見た目でしたが、塗り替え後は、そういった状態を無くす対策なのか、内側からもガムテープか何かを貼って開かないようにしている風に見えます。

正規運転台側の運転室や客室については、不必要とされた箇所が撤去されている以外、ほとんど引退時のままの内装で残されているように見えます。

パッと見、運転室仕切りの窓が全て大形である事や、座席の肘掛が6800系等で見られた物である事などが目立ちます。他にも、運転関連機器は水色基調の旧カラーで揃えられていますし、座席上の荷物置きは文字通りの網棚です。

撤去されている握り棒やデフロスターについては、取付に必要な穴や器具が残されていました。

〈2017-10-28〉
〈2017-10-28〉

簡易運転台側については、端の区画が運転用に空けられており、奈良線系統転属時に増設したと思われる関連機器がむき出しの状態で見えています。

窓上に残る収納箱や客扱いドア横で箱内に収められている機器類を見た感じ、現役時の入替運転を行わない時のこの区画には、何かしら客扱い営業に影響を及ぼさない方法で収納が行われていたのかもしれません。考えられるとしたら、一時的なカバー掛けとかですかね。

それと、正規運転台側の窓と違って、簡易運転台側のワイパー付き窓の方は、デフロスターがありません。モ1650形が改造された当時は、既に新車へ熱線吸収ガラスが採用されていたようなので、改造時に同様に取り換えられた可能性が考えられます。一方、入替目的でしか使わない小さい窓に対し、わざわざ取り付ける必要は薄いから付けなかったという可能性も考えられ、結局、その辺りは不明です。

3-5:屋根上・下回り

最後に車体上下の機器類について、一部のみ軽く紹介します。

屋根上の方は、パンタグラフ・ヒューズボックス・ベンチレーターの3点について触れます。

〈2015-07-02〉
〈2017-06-30〉
〈2019-10-26〉

パンタグラフは、恐らく現役時代そのままと思しきPT42形を簡易運転台側に1台搭載しています。2016.04 五位堂出場の1026系1027Fよりスタートしたパンタホーンの色塗りに関しては、入替車のパンタであろうと対象になっていたようで、他より遅れて2017年初夏に蛍光色が入れられました。

ヒューズボックスについては、最近の一般車は新型形状の物に交換が進んでいますが、こちらは引退時からそのままの物です。登場時に搭載していたヒューズボックスについては、いつ頃交換されたのか不明。五位堂入替車の方は、2000年代初頭まで載せていたようですが、現在となっては、大井川鐵道の16000系ぐらいでしか見れなくなってしまいました。

〈2019-10-26〉
〈佐味田川/2018-07-18〉

かまぼこ型のベンチレーターについては、こちらも引退時からそのままの状態で残されているように見えます。ちなみに、現在もベンチレーターを残している車両が載せている物は、ルーバーが見える方をカバー (?) で塞ぐような見た目となっており、外観に若干の差異があります。

〈2016-10-30〉
〈2019-10-26〉
〈2019-10-26〉

続いて車体下。現在も養老鉄道で活躍する同形車の方は、冷房化や転属時の改造で主制御器・主電動機・コンプレッサーなどが取り替えられたようですが、入替車の方は、見た感じ、ほとんどの機器類が引退時からそのままといった印象です。主抵抗器については、外側でそれらを覆うカバーが明るめの灰色で塗られています。

台車については、金属バネ台車である [KD30-B] を履いています。元々この台車は、登場時の10100系が履いていた物です。10100系時代は [KD30] を名乗り、枕バネも空気バネだったようですが、間もなく乗り心地改善の関係で10100系の台車が変更 (KD30系列→KD41系列) される事となり、捻出されました。

〈2017-10-28〉

余った台車は、枕バネを金属バネに変えた上で通勤電車へ流用 (M台車:KD30-B、T台車:KD30-C) する事になったらしく、1961年度以降に竣工した1480・1600系列の一部車両が新造時より流用台車を履いています。

なお、高安入替車の車種である C#1654[Mc] は、長リンクの金属バネ台車である [KD51-B] を履いて竣工しており、新製時から [KD30-B] を履いていたわけではありません。

〈2019-10-26〉
上段〈2017-03-08〉
下段〈耳成-大福/2017-01-05〉

C#1654[Mc] は、引退時まで [KD51-B] を履いて活躍しており、これが [KD30-B] へ交換されたのは、高安の入替機械となってからの模様。高安北車庫常駐となった直後は、そのままの台車だったようなので、除籍前後で行われたであろう交換は、高安で行われた事が推測できます。

ちなみに、10100系からKD30系列を押し出したKD41系列については、10100系廃車後に改造された一部が1480系や2000系へ流用されており、現在も2000系2編成が履いています。1959年登場の10100系が履いていた台車は、60年近く経った2020年でも車両の足として現役中です。

〈2016-02-29〉
〈2016-02-29〉
〈 Twitter より埋め込み・引用〉

ちなみに、台車に関して、個人的に気になっている事の一つに「車高」があります。昨年の「きんてつ鉄道まつり2019 in五位堂」で展示された五位堂入替車と8600系8604Fの連結シーンでも車高差が顕著でしたが、高安の方でも入替車側の車高が高めに設定されているように思います。レイルロード社発行の「サイドビュー近鉄1/3」に載る [KD30-B/C] 履きのク1700形やモワ50形の写真と見比べても、やはり入替車の方が高めとなっているような。構内の入替作業である程度の両数を牽引するという事もありますし、もしかしたら駆動関係の機器が入替車化前後で変更されているのかもしれません。分かりませんが。

4:おわりに

以上、高安検修場に常駐している構内入替車について、その経歴や最近の姿をざっと紹介しました。

1990年の入替車化以降、新車搬入・車両改造・廃車等々、様々な目的を持って高安へやって来る多くの車両を見てきたであろう元 C#1654[Mc] も今年度で竣工から57年を迎えます。

〈2015-11-24〉
〈2019-10-29〉

今や入替車としての方が長く稼働している元 C#1654[Mc] ですが、20年前の時点で既に多くの同世代車が淘汰されていた中、ここまで長生きしているのは、元からの機動性の高さと後付けの運転機能が今でも十分活きるからなのでしょうね。

[橿原⇔五位堂] で活躍する電貨は今年度が登場60周年ですが、こちらも3年後には竣工60年を迎えます。傍から見れば本当に長寿です。ただ、既に一般車60年が言われているので、今後こうした60年現役・現存車の存在は珍しくなくなっていくのかもしれません。


現在、近鉄線で最古参として現役している車両は、多くが1960年代後半~1970年代に登場した車両であり、2020年前後には、各系統線区で登場から50周年を迎える車両が多くなります。ただ、一般車60年と言うのは、恐らくギリギリまで使った場合という意味でしょうし、「ひのとり」投入後の10年内は、一般車の方にも大小様々な動きが出て来るかもしれません。

コロナ関係の長引き具合も影響を与えそうな現状ですが、特急車と併せて一般車の方も撮れる時に色々と記録しておきたいと思えます。

今回の記事は以上です。

5:リンク集

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このページの内容は以上です。

4 コメント

  1. 2度目のコメントをさせていただきます。
    当時の様子を全く知らない世代の方であるのに,詳しく調べておられることに,いつもながら感動しております。

    今回は,特に<参考2>を中心に,私から何点か補足をさせて下さい。

    まず,ブログに書かれておられるように,1982年6月1日から,新田辺・京都間で,朝のラッシュ時の急行の6両化(2本)をいったん中止し,急行の5両化(4本)が始まりました。その際の新田辺駅での増結シーンが,少し特徴的でした。

    すなわち,新田辺駅の4番線には,新田辺検車区と直接つながる渡り線が今なおあるのですが,➀モ1650形1両が渡り線の手前で待機する,➁待機していたモ1650形が,簡易運転台を使って4番線に入って停車する,➂奈良方からやって来た4両編成の急行が4番線に入り,停車していたモ1650形と連結する,➃5両編成となり,京都に向かって出発する,というものでした。これを,モ1651~1654の4両全車を使って,平日の毎朝,4本の5両編成を仕立てていました。そして,京都から折り返してきた5両編成の急行が,新田辺駅の1番線に入ってモ1650形を切り離し,4両編成となった急行が新田辺駅を出発した後,切り離されたモ1650形が新田辺検車区に戻っていました。今から思えば,京都線に移ってきた最初のころが,モ1651~1654の華々しく活躍していた時期でした。

    そして,おそらく1983年3月18日のダイヤ変更からだったと思うのですが,5両編成の運転区間が,奈良・京都間に拡大されました。その際,5両編成の2本に関しては,奈良発難波行の準急を難波方2両+奈良方3両の5両編成に仕立て,折り返し,難波発奈良行き準急とし,奈良到着後,これまた折り返し,京都行急行として走っていました。ですから,その当時,奈良線の準急停車駅の一部においては,5両の停車目標が設置されていたという事実があります。

    また,奈良発京都行急行の1本に関しては,京都方から見て,モ1650形+モ1650形+3両編成という,趣味的に見て非常に面白い5両編成が走っていました。

    ところが,その後は,奇数編成の運用の減少や,冷房化の対象から外されたことなどから,中部地区に戻ることなく,関西地区で引退を迎えたのは,ブログに書かれておられるとおりです。

    ちなみに,大久保駅については,地平にホームがあったころ,確かに,有効長は5両分しかなかったのですが,現在の高架ホームが完成する以前,高架構築物の西側(自衛隊側)に仮線が敷かれており,地平ホームの伊勢田方にあった踏切よりもさらに北側に,仮のホームが作られていました。すなわち,地平ホームから一足飛びに高架ホームに移ったわけではなく,地平ホーム→仮ホーム→高架ホームという段階を経ていたのです。その際,地平ホームの有効長は5両分でしたが,仮ホームの有効長は6両分ありました。

    次に,引退の際に行われた方向転換について補足をさせて下さい。

    引用されたYouTubeにあるように,1654+1652+1651+8069-8574が,中川短絡線を利用して方向転換をし,8574-8069+1651+1652+1654となって,関西地区に戻ってきました。

    ところが,このままでは,8574-8069は,8074-8720+8220-8569と再び編成を組むことができません。

    そこで,この方向転換には,実は続きがあって,8574-8069+1651が,再び中川短絡線を利用して方向転換をし,1651+8069-8574となって,関西地区に戻ってきているのです。

    そうすることで,8074-8720+8220-8569+8069-8574という元の編成を組むことができました。

    そして,結局,伊勢向きに方向転換をしたのは,1654と1652だけなのです。1651は,2度の方向転換によって,大阪向きに戻ったのです。

    その結果,1651と1652は,背中合わせで編成を組むことができ,救援車モワ51+モワ52となり,その際,モワ52は伊勢方にパンタグラフを移設したのですが,廃車となって現存しないのは,ブログで書かれておられるとおりです。

    また,1654は,今回のブログのテーマにあるように,方向転換の結果,本来の運転台が伊勢向き,簡易運転台が大阪向きとなり,高安車庫の入換車となって今に至るのも,ブログで書かれておられるとおりです。

    ポイントとなるのは,今回のブログのテーマではないので申し訳ありませんが,1653です。現在,五位堂検修車庫の入換車となっている元1653は,実際のところ,引退に伴って方向転換されたという事実はないのです。実際,同車は,本来の運転台が大阪向き,簡易運転台が伊勢向きのまま,今に至っています。今回のブログに掲載されている2枚目の写真〈五位堂検修車庫/2019-10-19〉は,まさに元1653ですが,左に五位堂検修車庫の工場の建物が写っています。また,その右には,写真では切れていますが,休憩電車に充当されていて,運転台があり,そして,通常は幌が付いていないということで,伊勢向きに運転台があるク5751が停まっています。これらのことからも,元1653の簡易運転台は,伊勢向きであることを物語っていると考えます。

    以上から,「C#1651[Mc] を除く3両については、各々の役割へ就く前に※再び方向転換が行われています。」,および,「・C#1653[Mc]

    運用離脱後、方向転換をし、」との記述は,それぞれ,書き改めが必要だと考えます。

    以上につき,長い書き込みとなってしまい,申し訳ありませんでした。

    参考にしていただければ幸いです。

    それでは,これからもユニークな観点から書かれたブログ,楽しみにしています。

    • 銭湯ファイト!さん

      こんにちは。コメントありがとうございます。

      そして内容に関する大変詳しいご教示に感謝いたします。

      モ1650形の奈良線系統運用についてのお話、とても興味深いです。運用の流れや運用域拡大時期など、はっきり分からなかった点が多くあったので、今回頂いたコメントでなるほどと思っております。新田辺駅での増解結手順も分かりやすく、理解が進みます。モ1650形の難波・奈良線入線については、以前どこかで軽く聞いたことがあったのですが、運用の実態がよく分かっておらず写真も見つからずで半信半疑でした。[1+1+3] の5両編成は、ゴツゴツした感じで見栄えしそうですね。登場時の名古屋線系統の他、1980年代の奈良線系統で実現している事に面白みを感じます。

      大久保駅の高架化については、3段階の手順を踏んでいたのですね。仮ホーム敷設の時点で6両対応になっていたとは知りませんでした。RP誌1987年12月号にも関連記事があると聞きましたので、そちらの方も参考にしてみようと思います。

      モ1650形と方向転換については、特に1653の件については、頂いたコメントを読んでいてすぐに間違いだと気づかされました。確かに、現在でも高安と五位堂の入替車はお互い向きが反対で、おっしゃる通り、1653の正規運転台側は京都・大阪方を向いたままです。今回は「サイドビュー近鉄 (3)」の内容に依拠しすぎてしまいました。情報整理がごっちゃになると特段深く考えずに収めてしまう癖があり、自省しております。ご指摘いただいた通り、関連箇所を修正させていただきます。

      方向転換のお話については、記事を書く前の時点で方向転換自体や転換時に組成されていた車両番号含めて知らなかった事が多く、興味深く思っております。情報ありがたいです。
      当初、動画の方向転換のみと思っていたのですが、8000系アルミカーの中間封じ込め後の組成を考えると納得です。確かに、1回では向かい合わせの連結になりません。アルミカー編成の片割れがわざわざ2回方転回送を行った理由も気になる所ですが、これは連結器高さ関連とモ1650形関連 (と青山越え関連?) で起用されたという所でしょうか。
      また、引用した動画に映る車両の番号は、鮮明に見えずによく分からない状態だったのですが、[1654+1652+1651+8069-8574] の組成だったのですね。1651は、向きが奈良線系統転属時と同じなので、そのまま方向転換を行わずという認識でしたが、コメント内容の通り、2回の方転回送で変更無しになったという事で納得しております。一方、1653は、方向転換をして五位堂入替車に…という認識でしたが、先述の通り、こちらは完全に認識違いでした。ただ、方転の回数や各車両の向きについて正しい認識があっても、方転回送時の組み込みが1651か1653かで考えさせられたと思います。

      以上、長々となりましたが、改めてコメントありがとうございました。

      記事内の分量の多さにも関わらず、読み込んで頂いた上で私が知らない時代についての興味深い情報や間違い箇所についての的確なご指摘をくださる事に感謝しております。

      今後ともよろしくお願い致します。

      • 私のコメントに対する早速のご返信,ありがとうございます。

        そして,私のコメントを受け,記事を書き改めて下さったことに,こちらこそ,感謝しております。

        さてさて,あと数点,補足がありますので,補足をさせて下さい。

        まず,「軽く調べてみれば、急行で京都に到着後、そこで解放して留置、そして別列車に併結して新田辺へ戻る運用もあったとか。」という記述についてです。

        モ1650形が京都線で活躍していたのは,朝のラッシュ時であり,しかも,1980年代前半ということで,通勤・通学客が増加の一途を辿っていた時期です。しかも,竹田駅での京都地下鉄乗り換えがまだ始まっていなかったので,ほぼ全ての乗客が,京都駅で下車していたころです。そのような時期に,京都駅に到着後,モ1650形を解放して留置し,そして,別列車に併結する余裕があったものやら?

        また,仮にそのような運用があったとすれば,改札口からやってきた乗客に対し,手前に停まっている1両の電車には乗れませんという旨の案内をする必要があるでしょう。また,解放・留置・併結の間,運転席下部の行き先表示板をどうしていたものやら?

        それ以上に,解放と併結の際には,担当の係員を配置する必要がありますが,そのような配置があったものやら?

        近鉄の場合,上りのターミナル(難波・上本町・阿部野橋)で電車の解放・併結をする場合がありますが,それはあくまで,特急電車だけの話であって,通勤電車については解放・併結はしないでしょう。

        また,その昔,京都駅には,1番線だけにつながっている数両分の留置線があり,そこに18200系などが停まっていた時期がありましたので,1番線で解放・併結をしていたのかもしれませんが,それも,あくまで特急電車だけの話でしょう。

        ということで,「」で引用させていただいた部分は,私個人としては,信じられない記述です。モ1650形を先頭に京都駅に入ってきた列車は,解放・留置・併結をすることなく,奈良方面へ向けて戻っていったのではないかと考えます。どう考えても,解放・留置・併結をする意味がなく,また,手間がかかって面倒なだけだからです。

        次に,引用されたYouTubeの映像についてです。この映像を再生後,1:12(1分12秒)あたりで停止ボタンをクリックされると,先頭のク8574から数えて3両目(真ん中)の車両の番号が,1651であることが何とか読み取れます。試してみて下さい。

        そして,引用されたYouTubeの映像についての謎は,最初の記事の時点で触れておられたことですが,1654の電気連結器が撤去されていたということです。また,今回の方向転換において,なぜ1651は2回も方向転換をしたのか,そして,なぜ伴走したのが8069-8574だったのか,ということです。というのも,1654と1652だけを方向転換したいのであれば,1654+1652+8069-8574という編成でよかったはずであり,そして,2回目の方向転換は,8574-8069の2両だけでもよかったはずだからです。それに,奈良線系統の2両編成はたくさんある中で,なぜ8069-8574が伴走車に選ばれたのか,という謎もあります。

        これらの謎に対し,今から述べることは,あくまで私の推測であることを,事前にお断りしておきます。ご了承下さい。

        私が思う結論から述べると,それはひとえに,連結器の高さでしょう。

        ご承知のように,8074-8720+8220-8569+8069ー8574という6両編成が生まれたのは,8569と8069が連結器の高さを880mmに嵩上げすることができなかったからであり,両車は,奈良線系統の基準の800mmのままで連結し合う形となりました。それに対し,8074と8574は,880mmに嵩上げすることができたため,先頭車として走ることができ,また,増解結をすることもできました。ここまでは,実際の話です。

        そして,ここからは私の推測ですが,モ1650形が引退した当初は,京都線に転属した際に調整された800mmのままであったのでしょう。そこで,奈良線系統のたくさんある2両編成の中で,800mmのままで残っていた8069が伴走車として選ばれた,ということでしょう。

        ところが,中川短絡線を利用しての方向転換は,関西地区から往復して約200kmもの距離を走ることになります。しかも,急な坂を上り下りするという山越えを伴います。そのため,もしものことがあれば,大阪線系統の電車に助けを求める形となります。

        そういった場合の助けに備えて,方向転換に向かう両先頭車の連結器の高さは,880mmに揃えておく必要があります。この点,8574は,880mmに嵩上げしてありました。ポイントとなるのは1654ですが,おそらく,この方向転換に備えるため,事前に880mmに嵩上げをしたのではないでしょうか。そして,嵩上げをした際,営業運転からの引退ということで,今後は運転台側の連結器を利用して他車と連結することがないため,ついでに電気連結器を撤去したのではないでしょうか。

        また,このような私の推測からいえば,関西地区に戻ってきた8574-8069が,今度は,800mmの連結器の高さのままである8069を先頭にして方向転換に向かうことはできなくなります。そこで,その伴走車として,1651をそのまま持ってきたのでしょう。そして,これもまた推測で申し訳ないのですが,2度目の方向転換に際して,1651の運転台側の連結器の高さを880mmに嵩上げをして走らせたのではないでしょうか。もっとも,1654と異なり,救援車として使うことを想定していたため,1651については電気連結器を撤去せずに嵩上げをしたのではないでしょうか。実際,モワ51となってからも,電気連結器を付けたまま,走っていたようです。

        以上が,あくまでも私の推測です。この推測については,それを裏付けるものが何もありませんので,あくまで一個人の意見と考えていただければ幸いです。

        ちなみに,これは訂正で申し訳ないのですが,モワ51+モワ52は,最期は,塩浜工場で解体されたようです。そのため,私の前回の「中部地区に戻ることなく,関西地区で」という部分は,カットして読んでいただきたいところです。そして,この点については,この場を借りて,お詫びします。失礼しました。

        以上につき,今度も長い書き込みとなってしまい,申し訳ありませんでした。

        参考にしていただければ幸いです。

        それでは,失礼します。

  2. 銭湯ファイト!さん

    こんばんは。再びコメントありがとうございます。

    そして、内容に関するさらなる補足に感謝いたします。

    京都駅での増解結に関しては、私もネット上の文字情報に頼ったのみで写真や動画で実際の作業場面等を確認したわけではないため、信ぴょう性は乏しいです。朝ラッシュ時の人通り多めの京都で一般車の増解結をする点については、私もどうなんだろうと考えております。仰るように、一度の増解結作業にかける手間や通勤時間帯の京都でそれを1両単位で行う意味を考えると疑わしいところで、概ね同意見です。事実確認が出来ていない以上、内容に関する正誤等の認識・判断は、この記事にアクセス頂いた読者に委ねる形としていますが、この場で他の方の考えを詳しく聴く事が出来て嬉しく思います。

    アルミカー編成が関わった方転回送については、引用したYouTube動画の他、『関西の鉄道』誌 (NO.23) の「近鉄だより」にも文字情報として記録があるようですね。もう少し調べておくべきでした。
    回送事情の推察については、なるほどと思っております。私は何となくでしか予想していませんでしたが、設定した謎とその解消の根拠となりうる背景および回送前後の事実に基づく流れの推測内容が具体的で大変分かりやすいです。全体としても筋が通った推察ですし、私としては仰る意見を支持できます。

    モワ51・52については、ネットで検索を掛けると塩浜で解体待ちとなっている様子を写した画像がヒットしました。奈良線系統での営業終了後、方転回送を経て五位堂で救援車としての改造を受けたようですが、最期に当初の活躍場所へ戻る事が出来たのは、両車両にとって良かったかもしれませんね。

    以上、長々となりましたが、改めてコメントありがとうございました。

    毎度、論理的かつ興味をかきたてられる内容で、見入りながら楽しく拝見しております。

    今後ともよろしくお願い致します。

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近鉄電車が見える家で育った鉄道オタク。車両の差異や変遷に興味あり。鉄道の他に鳥も好きで、最近は鳩に癒される事がしばしば。